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特別寄稿:本間大輔〔部活問題対策プロジェクト〕
※記事内容は寄稿者の見解であり、プロジェクト団体の
方針・見解とは必ずしも一致するものではありません。

【前回までの記事】
教員の多忙さと部活動の関係について(1):日本の教員を取り巻く現状と学校制度の成り立ち①
教員の多忙さと部活動の関係について(2):日本の教員を取り巻く現状と学校制度の成り立ち②
教員の多忙さと部活動の関係について(3):「日本型学校教育」の光と影①〔前編〕

今回は、前回挙げた「日本の学校が抱える3つの課題」のひとつである「1.子どもの抱える問題」から、代表的な4つの問題を紹介します。

◆子どもの抱える問題1 「いじめ」

いじめ問題は、代表的な学校における問題のひとつです。
毎年、いじめを苦にした自殺や、いじめが元になった傷害事件などがニュースで報道され、重大な社会問題となっています。

『文科省では定刻になるとチャイムが鳴るって知ってましたか?』(馳浩 他,小学館,2016)という本の中では、このようなことが述べられています。

「どんな学校でもいじめが起きることを前提に防止に取り組むべきで、教員は過信せずに、常に緊張感を持って子供たちと接するべき」(『文科省では定刻になるとチャイムが鳴るって知ってましたか?』p.35より引用)

2013年には、馳浩氏を中心に「いじめ防止対策推進法」が立法され、いじめが発覚した場合の自治体や学校の責務などが法で定められました。
これは文科省の活躍の極々一部でしかありませんが、文科省として精力的に教育を良くするために尽力している様子の一端を伺い知ることができます。

しかしながら、これも、あくまで日本の学校制度という大きな土台の上で、どうにか工夫をすることができないかと手を尽くして整備されたものにすぎません。

いじめが起こる根本的な問題は学校制度という巨大なシステム自体にあると言っても過言ではありません。
しかし、文科省としてそこに手をつけて改革を施行しようとすれば、とてつもなく困難を極めるため、対処は常に後手後手となってしまっているのが事実です。

学校でのいじめ防止に向けた取り組みの第一歩は、「どんな学校でもいじめが起きる」という前提に立つことです。
現に、先に紹介した通り、前文科大臣の馳浩氏もそのように主張しています。
子どもが「学校」にいるかぎり、子どもの性格などに関わらず、いじめに遭遇する(あるいは加害者になる)リスクは避けられようがないのです。

内藤朝雄が著書『いじめの構造』(講談社現代新書,2009)で指摘しているように、日本の学校は「生活集団」(生活を丸ごと共有する場)であるがゆえに、長期間の固定メンバー・人間関係が高密度かつ非流動的であり、いじめや不登校を誘発する元凶となっています。

これに対峙していくためには、「市民社会の論理」を学校に取り入れていくことが有効となりますが、現状では実施が難しく、大々的に取り入れられていません。

なぜ、学校に「市民社会の論理」を取り入れることが難しいのでしょうか?
これについて、内藤の『いじめの構造』から象徴的な箇所を引用します。

「スーパーマーケットで市民が市民を殴っているのを見かけた別の市民は、スーパーマーケットの店員の頭越しに警察に通報するだろう。その通報者は市民の公共性に貢献したとして賞賛される。しかし学校で『友だち』や『先生』から暴力をふるわれた生徒が、学校の頭越しに警察に通報したり告訴したりするとしたら、道徳的に非難されるのは『教育の論理』を『法の論理』で汚した被害者のほうである。」(『いじめの構造』p.168より引用)

このような実態があるために、現状では「市民社会の論理」を学校に入れていくことは困難を極めているのです。

しかし、学校特有の閉鎖性が生徒を脅かしうるその一方で、「生活集団」である学校制度の中では、いわば学級は「ファミリー」とも言える心地のよい「居場所」となっているのも事実です。

いじめ・不登校を誘発せずにうまく学級を運営することができれば、学級はとても心地のよい「居場所」となりえます。
これは、「生活集団」をベースとしている「日本型学校教育」制度の大きな長所です。
しかしながら、これも裏を返せば、学校内においてもまるで「家庭」内であるかのごとく、「市民社会の論理が適用されない」可能性があるということに他なりません。

その上、教室という限られた空間に同年齢の生徒集団を密集させている日本の学校・学級は、まるで「ウサギ小屋」のようです。
狭い「ウサギ小屋」に密集させられているウサギたちには、大きなストレスがかかるものです。

そうした決して良質とは言えない状況の中で、全国どの学校でも居心地の良い「ファミリー」のような学級として生活を成り立たせていくことは、子どもたちにとっても、教師にとっても、至難の業であると言えるでしょう。

◆子どもの抱える問題2 ウサギ小屋の改築にはカネが必要

前述のような問題は、「ウサギ小屋」を増改築し、環境を整えることで、改善を試みることができます。

一例ですが、オランダで実践されている「イエナプラン教育」を参考にしていくことも有益となりえます。
ここではイエナプラン教育についての詳述は省きますが、私の理解では、「ウサギ小屋」を一軒家に改築したようなイメ―ジのものです。

そこでは、「ファミリー」としてそれぞれ年齢が異なる子どもたちが成長していくための環境が整えられており、「アクティブ・ラーニング」を実施しやすい教育環境となっています。
イエナプラン教育およびオランダ等での充実した教育については、リヒテルズ直子・苫野一徳の著書『公教育をイチから考えよう』(日本評論社,2016)でわかりやすく紹介されています。

ちなみに、「日本型学校教育」制度のもとで「アクティブ・ラーニング」を実施しようとしても、管見の限り、効果的な実践はほとんど不可能です。それはなぜなのでしょうか。

「アクティブ・ラーニング」を実施するには、教育環境の充実が必須です。
しかしながら日本では、教育環境を整えるための公教育費が圧倒的に不足しているのです。

以下の図を見ると、日本のGDPに占める公教育費(全学校段階への公的支出)が、国際基準と比較しても少ないことがわかります。

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OECD「Education at a Glance 2015: OECD Indicators」(2015)pp.259を参照して筆者が作成

公教育費が極端に不足しているからこそ、低予算で教育を運営せねばならず、「日本型学校教育」制度を維持する必要性が生じているのです。
先進諸国が多いOECD加盟国の中で、日本の公教育への支出の割合が極端に低い事実に、危機感を抱く人も少なくないことでしょう。

また、圧倒的な低予算で維持される「日本型学校教育」制度が効率よく子どもを「規格化すること」に適しているのに対して、「アクティブ・ラーニング」は効率よく子どもを「成長させること」に適している、という違いがあります。
両者がシステム上対極に位置しているということも、「アクティブ・ラーニング」の導入をいっそう困難にする要因のひとつです。

このように、子どもや教員にとっての劣悪な教育環境、教員の多忙さ等、その他様々な教育課題に現場が困窮しているのは、文科省に原因があるというよりも、むしろ国家規模での財政計画に大きな原因があるのだと思われます。
この視点は、中澤渉の著書『なぜ日本の公教育費は少ないのか:教育の公的役割を問いなおす』(勁草書房,2014)にて提示されています。

教育が「未来への投資」である以上、私たちやその子孫が明るい未来を迎えるためには、教育予算を拡大し、文部科学省が教育の充実に向けて政策運営をしやすくなるように国家規模で大々的にバックアップする必要があります。

しかしながら、現在、教育を充実させるための費用は十分に確保されていません。

国が教育に投資をしてこそ、行政や文部科学省はより効果的な教育改善に着手できるようになり、私たちやその子孫は明るい未来を迎えられるようになるのではないでしょうか。

◆子どもの抱える問題3 「わからないまま進級」「落ちこぼれ」

日本では、「学年制・学級制」と「一斉授業」を教育システムの根幹としているため、学習課題を達成できないまま進級していく子どもたちが少なくありません。

このシステムは、「落ちこぼれ」を多く生み出しながらも、「一斉授業への参加を以って各学年を修了した」と見なすことを繰り返し、最終的に「学校を卒業した」ことにしてしまえるので、日本の公教費は低コストで済み、効率的に「教育を施したこと」としてしまえるものと化しています。

しかしながら、このシステムは、「子どもにとっての学び」という観点では、極めて非効率なものです。
子どもにも得意・不得意がありますが、「生徒の規格化」に適した現行の制度では、それを汲み取った教育が極めて実施しにくいのです。

「子どもにとっての学び」を効率化しようとすれば、アクティブ・ラーニングが効力を発揮します。
しかし、公教育への十分な投資がない日本型学校教育のもとでこれを実施しようとしても、低予算・人員不足といった狭い枠の中で達成可能な範囲でのみの実践に留まり、結局のところ非効率的なままに終わってしまいます。

どのような状況であれ、教育の目指す最終目標は、効率的に「子どもの学び」を達成することのはずです。
しかし、適した教育環境を構築していくにしても、国からの公教育への投資が低迷したままであり、制度の根本部分が変革されないことには、効率的な学習を行うという目標の達成は、依然として難しいままでしょう。

◆子どもの抱える問題4 「学校がつまらない」「授業がつまらない」

「子どもの学び」という観点では、学校での授業内容もまた、問題を抱えていると言えます。

皆さんは学校に通っていた頃、「なぜ、この内容を授業で学ばなければならないのだろう?」と考えたことはありませんか?
例えば、中学校2年生の理科では、「オームの法則」を学ぶことになっていますが、これはなぜなのでしょうか。

時勢の変化はますます激しくなっていますが、その一方で、「教育課程」(授業のカリキュラム)が「子どもにとっての学び」を効果的なものとするような更新は、なされていないように思われます。

なぜ、小中高等学校では、教育課程が大きく変わらないまま維持されてきたのでしょうか。

『公教育をイチから考えよう』によれば、この問いについて、現代の国民を納得させられる回答はありません。
なぜなら、現行の教育課程の内容のほとんどが、「学校制度が開始した当初のまま維持されてきただけ」であって、それ以上でも以下でもないからです。

生徒の立場に立ってみれば、時代の変化に応じて興味・関心を養い、これを補う授業が実施されないのですから、「学校がつまらない」「授業がつまらない」と感じるのも当然です。

教育課程は、「学習指導要領」という形で、近年ではおよそ十年ごとに改訂されています。
しかし、この更新さえも、やはりこれまでの慣習に従うばかりであり、日本型学校教育という土台を無視することはできません。
そのため、「子どもにとっての学び」を最優先した更新は行われにくいのです。

ただ、この問題については、私の想像ではありますが、文科省としても「理想と現実」の壁に忸怩たる思いを抱いているのではないかと思います。

このように、現代の教育課程では、生徒にとって「理不尽を強いる」性質を維持しながら、「日本型学校教育」制度のもと、画一的な一斉授業が行われ続けています。

今の時勢に合わない画一的な授業は、学校制度が開始した当初に「国側の都合」で実施されていたものを土台として維持されているものにすぎません。
これもすべて、生徒側のニーズに合わせた教育を実施するための教育環境(制度)が十分に整備されていないことが原因です。

「『生徒の規格化』をできる限り避けようとする教育実践」であるアクティブ・ラーニングは、このような画一的な授業形式とは対局に位置するものです。
そのため、「生徒の規格化」を目指すという土台をもつ現行の学校制度のもとでは、アクティブ・ラーニングの効果的な実現は困難を極めるのです。

こうした中、生徒たちは「ウサギ小屋」の中で、ストレスを募らせていくのです。

〔後編〕に続く

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