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前回の記事では、学校教育における部活動の「学校教育の一環でありながら、自主参加を名目としている曖昧さ」という観点から部活動問題を検討し、学校教育における部活動はその定義の「曖昧さ」ゆえに、一部の自治体では教師だけでなく生徒も部活動への参加が強制されている、という実態をご紹介しました。

【前回の記事】
「2つの視点から部活動問題を考える (1/2) :学校教育での「自主的活動」という曖昧さ (小林 翔太=文)」

前回に引き続き、今回は「『教育』と『競技』の狭間」という2つ目の観点から、部活動問題を捉え直してみようと思います。

◆オリンピックと高校野球の違い

今年はリオデジャネイロオリンピック開催の年であり、また8月現在、夏の代名詞とも言える「甲子園」こと全国高校野球選手権大会が行われており、その動向に日本中が注目しています。

この2つのイベントは同じくスポーツを対象とした大会ですが、その一方で大きな違いがあります。
それは、オリンピックが「競技としての大会」であるのに対して、高校野球はあくまで教育の一環である「部活動の大会」であるという点です。

◆アメリカの部活は「少数エリートの競技活動」

では、ここで視線を国外に向けて、アメリカの部活動事情について調べてみましょう。

主に日本の運動部活動について研究している中澤篤史(なかざわ・あつし)一橋大学大学院社会学研究科准教授によると、「スポーツ」と「学校教育」がこれだけ密接に結びついているのは、世界的に見ても日本だけなのだとか。(*1)

もちろんアメリカ等、学校教育の場において部活動が存在する国は他にもあります。
しかし、それらの国での部活動はあくまで「スポーツのための部活」であり、日本のように人格形成などを目的とした「教育のための部活」ではないのです。
そのためアメリカでは、学業成績や運動技術などが一定水準を越えないかぎり、そもそも部活動に所属することができない、ということも少なくありません。

このアメリカの仕組み自体が完璧なものであるとはもちろん言えませんが、この仕組みにより部活動は「競技」であるという認識が広まっているのでしょう。
一方で日本の場合、甲子園などの運動部活動の全国大会を見れば「競技」と捉えているように見えますが、その実態は「教育活動」であり、日本の部活動はそれ自体が「曖昧さ」を内包していると言えます。

(*1)中澤篤史(2016/3/30)「体育学者・中澤篤史インタビュー『AmazingでCrazyな日本の部活』第1回:外国にも部活はあるの?」(webマガジン『PLANETS』掲載)


◆日本の運動部活動が成立している理由は未解明?

なぜ日本においてだけ、このような形で部活動が成立し続けてきたのでしょうか?

中澤准教授によると、その成立の背景と仕組みは未だ解明できていないのだそうです。
現在、議論されている部活動問題は「運動部活動が既に成立していること」を前提としています。そのため、「なぜ部活動が成立し続けているか」という議論には未だ至っていないのが現状なのです。

また、このような部活動問題に関するあらゆる点の不明瞭さから、教育学の領域では部活動の存在を「教育」と捉え、スポーツ科学の領域では純粋に「スポーツ組織」と捉え直すことを目指すなど、解釈によってもその対応は様々です。
まずは、このような認識のずれを生じさせる部活動という存在の「曖昧さ」を取り除かないことには、部活動問題の解決はまだ難しいのかもしれません。 (*2)

(*2)中澤篤史(2011)「学校運動部活動研究の動向・課題・展望―スポーツと教育の日本特殊的関係の探求に向けて―」(『一橋大学スポーツ研究 Vol.30』収録)p.30,pp.31-42 ※PDFが開きます。

近年、たとえば冒頭に挙げた高校野球では、投手の酷使や女性マネージャーの練習参加を禁止した事例などの問題が議論されています。
また先日は、NHKの番組『クローズアップ現代+』にて「部活動問題」が改めて取り上げられる(*3)など、様々な観点から「部活動」が捉え直され始めていると言えるでしょう。

(*3)「『死ね!バカ!』これが指導?~広がる”ブラック部活”」(NHK『クローズアップ現代+』2016/8/1 放送)

前回から引き続き、学校教育における「部活動」が抱えるあらゆる「曖昧さ」についてご紹介しました。

みなさんは、「部活動問題」をどのようにお考えでしょうか?コメントをお待ちしております。

(下記フォームにご意見お待ちしております。許可なく掲載させていただくことはありませんのでご安心ください。)

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